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2005年 07月 17日
【MotoGP】'Steady'Eddie Lawson
写真とか見てはしゃいでいて、肝心なこと書くの忘れてた・・・

アメリカGPで、4度の世界王者に輝いたエディー・ローソンが「MotoGP殿堂」入りを果たした。
ローソンの時代は500ccクラスだから「MotoGP殿堂」っていう名前はヘンだと思うけど、まぁそれはいいとして、先日の記事にも書いた通り、ローソンの殿堂入りは遅すぎたくらいだ、と思っている。

オレッチがWGPの魅力の虜になり始めた当時、オレッチのヒーローはエディーの宿敵であるフレディー・スペンサーだったし、フレディーに対してエディーが強烈なライバル心を持っていたこともあって、エディーは必ずしも好きなライダーじゃなかった。
84年にエディーが初のチャンピオンになった時には、フレディーが信じられないようなバッドラックだったこともあって、フレディー不在だから勝てただけだろ、と、正直なところ蔑んで見ていたりもしていた。

ハングオン(またはオフ)スタイルを確立した“キング・ケニー”。ファストイン・ファストアウトという異次元のライディングを披露した“ファースト・フレディー”。そして、常に彼らと比較されたローソンに付けられた呼び名は“ステディー・エディー”。
毎ラップ毎ラップ、正確なライディングを淡々とこなすクレバーなスタイルから付けられたものだけど、なんか地味な感じがして、カリスマ性にも欠けていると思っていた。エディーのことを「気難しくて内向的な性格をしている」とレッテルを貼って伝えるメディアの影響もあったのかもしれない。
フレディーを「陽」とすれば、エディーは「陰」という感じだった。

また、フレディーに敗れたケニーがまだまだ全然速さが衰えてもいないのに引退したこともあって、やっぱりレースは勝ってなんぼ、2位以下はどんな順位でも負けは負け、なんて当時は単純に思っていた。だから、「勝つときと、そうでないときがある」と言って憚らず、チャンピオンになるためにはリスクを負って勝負するより、2位で確実にポイントを獲得することを優先するというエディーの戦い方も、なんかエディーを好きになれない原因の一つだった。

だけど、電池の切れたフレディー様(涙)に変わってガードナーを応援するようになってから、実はエディーがどれだけ凄いライダーなのか、ジワリ、ジワリと、まるでボディーブローが効いてくるように分かってきた。
当時の500ccマシンは毎年のようにパワーを増し、徐々にライダーの手に負えない怪物になりつつあった頃で、トップライダーと言えどもライバルと戦う前にまずはマシンと戦っているような感じだった。そんな中で、涼しい顔で平然とモンスターマシンを操り、淡々と正確なラップを重ねるエディーは、実はとてつもない技量の持ち主で、途方も無くタフなライダーだったんだ、と。
まさにそれこそが、エディーの真骨頂なのだと。

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[Photo : Yamaha]


エディーがいかに偉大なライダーであるか、その評価を決定付けたのは89年だったと思う。この年、WGPデビュー以来乗り続けていたヤマハからライバルのホンダに電撃移籍し、誰もが無理だと思っていた異メーカーでの連覇を達成した。
この頃には勿論、オレッチにとってもエディーはもはや紛れも無いヒーローになっていた。

ま、こんな感じで、オレッチがエディーのスゴサに気づいたのも遅かったんだから、殿堂入りが遅かったからって文句を言えた筋ではないけど、なんにしてもホント良かったね、エディー。

エディーの殿堂入りを称えて、エディーを知らないかもしれない方々に、以下、WGPでのエディーの輝かしいキャリアを紹介します。
一応、古い文献を参考にして書きますが、一部うろ覚えで書く箇所もあるので、もし事実誤認などあったらコメント欄でご指摘ください(笑)





キャリア概要

エディのWGPにおけるキャリアは、宿命のライバル、フレディー・スペンサーとの闘いだった85年までと、チャンピオンとして若手を迎え撃った89年まで、そして、名チャンピオンとしてWGPの発展に尽力した92年までの3つの時期に分けられる。

WGPでのキャリアは1983年にスタートする。フレディー・スペンサーとの決戦に望むケニー・ロバーツのサポート役としてヤマハに抜擢される。しかし、WGP史上に残る2人の壮絶な戦いに割って入る事が出来ず、ローソンはロバーツのサポートに失敗。WGP1年目は失意のシーズンとなった。

そしてロバーツが引退し、ヤマハのエースとなった翌1984年。前年の雪辱を期して挑んだ初戦の南アフリカGPで、まずはGP初優勝を達成する。その後も着実にポイントを積み重ね、GP参戦2年目にして見事初タイトルを獲得する。確実にマシンを操り、無理することなく冷静にレースを組み立て、着実に勝ち星を挙げていくクレバーな走りから「ステディー・エディー」と呼ばれた、その真骨頂を発揮したシーズンだった。
シーズン前のインタビューで、「フレディーに勝てたなら、一生他に何もいらない」と語るほどスペンサーに対して強いライバル心を持っていたローソンにとって、この年は快心のシーズンとなった。

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[Photo : Yamaha]


しかし、この年のスペンサーは度重なる不運で本調子ではなく、優勝回数でもスペンサー5勝に対しローソンは4勝にとどまっていた。さらに、スペンサーが新型マシンを得て完全復活した翌85年には、ズバ抜けた速さのスペンサーに全く成す術無くタイトルを奪い返されてしまう。
そのため、ローソンは一部周囲から、ある屈辱的なレッテルを貼られてしまう。「スペンサーのバッドラックのおかげで勝てた、ラッキーなチャンピオン」と。

実は85年はローソンの方が本調子とは言えない状況にあった。チームオーナーであるジャコモ・アゴスチーニとの関係が極度に悪化しており、シーズンも第3戦にまでなってやっと契約書にサインをするような有様で、スペンサーと勝負をする以前に既にローソンは消耗してしまっていた。
しかし、そんなローソンの状況はお構い無しにレッテルは貼られてしまう。ローソンの胸の中のスペンサーに対する熱い闘争心は一層掻き立てられた。
記者からスペンサーのことを質問されたローソンが、「Freddie?Who?」と答えたことは良く知られている。

ところが翌1986年、その宿命のライバル、スペンサーが突然目の前から消えてしまう。持病の腱鞘炎の悪化が原因だった(現在では、早熟の天才ゆえの「燃え尽き症候群」が原因と言われている)。
突如目標を失ったローソンは、孤独なシーズンを送ることとなった。スペンサーに代わりホンダのエースとなったばかりのワイン・ガードナーにはローソンを打ち負かす力量はまだ無く、11戦中7勝という圧倒的な強さを発揮してチャンピオンを奪還する。
スペンサーが表舞台から去り、2度目の王座を獲得したことで、ローソンは追う立場から追われる立場へと変わっていった。

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[Photo : Yamaha]


1987年と88年の相手は、ホンダの新エースとして力を付けたガードナーだった。
87年は大きく仕様が変わったYZRに最後までてこずってしまい、ガードナーの著しい成長もあって、ガードナーに念願の初タイトルをプレゼントしてしまう。さらに、ステディーと呼ばれるローソンにしては珍しく3回のリタイアを喫してしまったため、“無冠の帝王”ランディー・マモラにも後塵を拝することとなり、この年のランキングは3位に終わる。
ただ、リタイアした3回のうち2回はタイヤやマシンの問題だったし、完走したレースは全て表彰台に上がっていた。ローソンが依然として王者に相応しい力を持っていることに疑いは無かった。
それを証明するように、翌1988年はマシン開発に失敗してもがくガードナーを尻目に、再び年間7勝をマークして悠々と3度目のチャンピオンを獲得し、その地位と名声を不動のもにする。

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[Photo : Yamaha]


そして1989年、ローソンは世界を驚かせることになる。
それまで乗り続けたヤマハから、かつては「ホンダを倒すことが喜びだった」とまで言った宿敵ホンダへの電撃移籍を敢行する。
誰もが無謀と思う移籍だった。これまで、異なるメーカーを跨いで連覇を達成した者は1人もいない。まして前年、ホンダはマシンの開発に失敗し、ローソンの操るヤマハに完敗を喫している。さらには、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツという強力な若手も登場してきた。
果たしてシーズン前半、ローソンは思うように走らないNSRに手を焼き、ライバル達のスピードに完全に遅れを取ってしまう。
しかしそこからがステディー・エディーの真骨頂だった。新たにペアを組んだ名エンジニア、アーヴ・カネモトと二人三脚でマシン開発を進め、早くも第4戦スペインGPで移籍後初優勝を達成し、その後も着実に表彰台を獲得していく。
そして、ポイント首位レイニーから16点ビハインドで迎えた第10戦ベルギーGPでシーズンの流れが変わる。度重なる激しい降雨でレースは2度中断されて3ヒートで行われ、3ヒート合計のタイムでレイニーが優勝する。しかしその後、レギュレーション上の問題で3ヒート目が無効となり、ローソンが逆転優勝。負けられなかったレースで、ポイント差を詰めることに成功する。
これで動揺したレイニーはその後シーズン終盤は精彩を欠き、最後までクレバーなレース戦略に徹したローソンが4度目の王座を獲得する。同時に前人未到の異メーカーによる連覇も達成し、ローソンはGP史にその名を残すことになる。

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[Photo : http://monalbumphoto.9online.fr/]


1990年は再び古巣のヤマハに戻る。自身をWGPに引き上げくれたケニー・ロバーツのチームに合流。チームメイトは前年チャンピオンを争ったレイニーだった。2年連続して、ライバルの懐に飛び込んだローソンは、ロバーツ以来となる最高峰クラス3連覇を目指した。しかし、この年はローソンをGPキャリア最大の不運が襲った。
初戦の鈴鹿でクラッシュし負傷。これが尾を引き、結局シーズン前半を棒にふってしまう。復帰した後半は、シュワンツと初王座を賭けて争っていたレイニーをサポート。レイニーは初タイトルを獲得し、ローソンはその存在感を示した。

そして1991年、エディーは再び世界を驚かせる。イタリアの後発メーカー、カジバに電撃移籍する。
それまで、マモラらを擁して果敢に日本メーカーに挑戦するものの、大きく水を開けられたまま、カジバはなかなかその差を縮められずにもがいていた。そんなカジバを、エディーはこれまでのキャリアを通して培った技術と知識を全て注ぎ込んで育て上げていくこととなる。
まずはカジバの地元、第5戦イタリアGPで初表彰台をプレゼント。この年はもう1度表彰台を獲得する活躍で、シーズンが終わってみれば、レイニー、シュワンツら日本のファクトリーチームのエース達に次ぐランキング6位を獲得。1年目にして早くもカジバを一躍トップメーカーに引き上げることに成功する。

カジバ時代のハイライトは、2年目となる1992年の第10戦ハンガリーGPで訪れる。
スタート後に振り出した雨で決勝が一旦中断され、そして迎えた第2ヒート。他のライダーがレインタイヤを履く中で、エディーは一人、フロントにインターミディ、リアにカットスリックを履いてグリッドに着く。“ステディー・エディー”と呼ばれた男とは思えない、天候回復に賭けたギャンブルだった。
雨が降り続く中スタートした第2ヒート序盤。依然として雨は振り続け、いたるところでスピンするタイヤと格闘しながらローソンは必死にその時を待った。果たしてレースが中盤に差し掛かった頃、ついに雨は止む。レインタイヤを履くライダーは、乾き始めた路面で急速に磨耗していくタイヤとの格闘を余儀なくされる。
立場逆転。そこからエディーの怒涛の追い上げが始まった。トップを走るダグ・チャンドラーとは約50秒もの大差が開いていたが、ローソンはチャンドラーとの差を毎ラップ5秒ペースで縮めていく。ツイスティーなレイアウトで抜き難さには定評のあるハンガロリンクのトラック上で、面白いように前を走るライダーを次々とパスしていくローソン。そして残り4ラップ。遂にチャンドラーを捉え、見事大逆転勝利を飾る。
イタリアン・メーカーとしては実に16年ぶり、カジバにとっては初となる歴史的な優勝。翌日のイタリアのメディアは、この劇的な勝利を伝えるニュースで埋め尽くされた。

そしてこの歴史的な勝利を置き土産にして、ローソンはこの年を限りにGPマシンを降り、10年間の輝かしいキャリアに幕を閉じた。

正確無比のテクニックとクレバーな戦略。そして、一見物静かそうに見える表面に隠れた、誰にも負けない胸の内の熱い闘争心。それがエディー・ローソンというライダーだった。


シーズン別成績

 1983年 500cc Yamaha / Marlboro Yamaha #27 総合4位(最高2位)
 1984年 500cc Yamaha / Marlboro Agostini #4  チャンピオン(4勝)
 1985年 500cc Yamaha / Marlboro Agostini #1  総合2位(3勝)
 1986年 500cc Yamaha / Marlboro Agostini #2  チャンピオン(7勝)
 1987年 500cc Yamaha / Marlboro Agostini #1  総合3位(5勝)
 1988年 500cc Yamaha / Marlboro Agostini #3  チャンピオン(7勝)
 1989年 500cc Honda / Rothmans Kanemoto #1 チャンピオン(4勝)
 1990年 500cc Yamaha / Marlboro Roberts #1  総合7位(最高2位)
 1991年 500cc Cagiva / Cagiva Corse     #7  総合6位(最高3位)
 1992年 500cc Cagiva / Cagiva Corse     #7  総合9位(1勝)

通算成績

 出走 127回
 総合優勝 4回/1984、1986、1988、1989(歴代3位タイ)

 初GP 1983年 第1戦 南アフリカGP
 初入賞 1983年 第1戦 南アフリカGP(8位)
 初優勝 1984年 第1戦 南アフリカGP
 初ポールポジション 1984年 第3戦 スペインGP
 初ポール・トゥ・ウィン 1984年 第3戦 スペインGP
 初ファステストラップ 1984年 第3戦 スペインGP

 優勝回数 31(歴代5位)
 表彰台獲得数 78(歴代3位)
 ポールポジション回数 18(歴代8位タイ)
 ポール・トゥ・ウィン回数 9(歴代6位タイ) 
 ファステストラップ回数 21(歴代8位タイ)
 トータル獲得ポイント 1,429点

 ※歴代順位は最高峰クラス(500cc/MotoGP)での、2005年7月現在のもの。


Note
  • カリフォルニア出身のアメリカ人。なのにバスケ、アメフト、野球に興味なし。
  • 妹は小学校の先生。父親は化学者。気質は父親譲り?
  • ステディ・エディーという呼び名は実はAMA時代からのもの。WGPに来てからも、派手めなケニーやフレディーらと比較されながらも一貫してそのスタイルを守り続け、着実に結果を積み重ねていったことで、やがて世界からも賞賛を込めてステディー・エディーと呼ばれるようになった。
  • エディーは押しがけスタートがあまり得意じゃなかった。YZRの始動性の悪さも手伝って、いつもライバル達に1周目で数秒差をつけられてしまい、後方からの追い上げを余儀なくされていた。押しがけスタート方式は1988年に廃止されたが、もう2、3年早く終わっていれば、 F.スペンサーらとの激しいバトルがもっと見られたはず。
  • マールボロ・ヤマハ・アゴスチーニに所属していたけど、チーム・オーナーのアゴスチーニとは仲が悪かった。1985年は前年チャンピオンになったにもかかわらず、アゴから提示された契約金は前年以下だった。1989年のホンダ移籍の原因は、いつまでもチャンピオン面して偉そうにしているアゴに愛想をつかしたのが原因とも言われた。
  • マールボロ・ヤマハ・アゴスチーニ時代の担当メカニックはK.キャラザーズ。知る人ぞ知る、1969年の250ccクラスのチャンピオン。同チーム時代は、チーム・オーナーもメカニックもライダーも世界チャンピオン経験者だった。
  • 1988年のホンダNSRは、シャシーがエンジンに負けてしまっている失敗作。それを、翌年ホンダに移籍したエディーが名メカニック、アーヴとともに修正。90年代に圧倒的な強さを誇ったホンダNSRの原型はエディーが作ったようなもの?
  • 1990年、平忠彦とペアを組んで鈴鹿8耐に参戦。W.ガードナー/M.ドゥーハン(すごいペア!)のリタイアにも助けられ、あっさりと優勝。それまで数々の悲運にみまわれて8耐未勝利だった平に、見事初優勝をプレゼントした。その仕事ぶりは、まさに”優勝請け負い人”。噂によると、この時のヤマハとの8耐1戦限りの契約金は1,000万円。
    ちなみに、エディーの8耐初参加は1980年。G.ハンスフォードとペアを組んで当時アメリカで所属していたカワサキ・チームからエントリーし、決勝は2位だった。WGP引退後の1993年には辻本聡とのペアでホンダからエントリーし、この時も2位に入っている。(7/27修正)
  • オールド・ファン(オレッチよりももう一つ上の世代?)には、エディーと言えばカワサキのイメージが強いかも。WGPに来る前、AMAスーパーバイクに参戦していた頃はカワサキのエースだった。AMA時代のマシンをコピーしたライムグリーンのZ1000Rローソン仕様は今でも中古車市場で大人気。




エディーのホンダへの電撃移籍は、当時そりゃもう、もんのスゴイ衝撃だった。
AMA時代は「フレディーとホンダを倒すことが最大の喜び」とまで言っていたくらいだし、当時のホンダには新たなライバル、ガードナーもいたし、よもやエディーが宿敵ホンダに移籍するなんて想像もしていなかった。当時好きで読んでいた「レーシング・ヒーローズ」誌のトップ見開きで、「電撃移籍」の巨大な文字を見つけたときは、いやもうホントにビックリした。
確かに、アゴ
との不仲からチームを出るんじゃないか?という観測は以前から結構流れていたけど、ロッシのヤマハ移籍なんか比較にならないくらいの衝撃だった。
しかもペアを組むのが宿敵フレディーの育ての親であるアーヴと知って2度ビックリ。
by oretch | 2005-07-17 02:15 | MotoGP

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